『虎に翼』キャスト25人のモデルとなった実在人物【相関図】

寅に翼・キャスト ドラマ

笠置シヅ子をモデルにした『ブギウギ』に続く、NHK連続テレビ小説第110作目『虎に翼』において、伊藤沙莉演じるヒロインのモデルとなっているのが、三淵嘉子(みぶちよしこ)。

日本法曹界における女性パイオニアの一人です。

本記事では、主要キャスト25人について、彼らのモデルとなっている実在人物、また特定のモデルがおらず架空の可能性が高い人物にわけ、くわしくご紹介したいと思います。

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実話をもとに描く朝ドラ第110作目『虎に翼』

2024年4月1日にスタートしたNHK連続テレビ小説、通称「朝ドラ」第110作目の作品が『虎に翼』です。

伊藤沙莉が演じる主人公・猪爪寅子(いのつめともこ)のモデルが、女性初の弁護士、裁判官、裁判所所長となった三淵嘉子(みぶちよしこ)であり、実話をもとにしたオリジナルストーリーが展開します。

物語には多くの創作が盛り込まれるはずですが、それでも、ヒロインのみならず、実在した人物がモデルとなっている登場人物が多数登場するものと思われます。

ここでは、主要登場人物/キャスト25人を、【1】モデルとなっている実在人物がほぼ判明しているキャスト、【2】架空の可能性が高い人物にわけて紹介したいと思います。

こうした背景や実話を知れば、もっと深くドラマを楽しめるはずです!

物語の展開上、何が事実で何が創作かについては、下記の記事で詳しく紹介しています。

■人物相関図

この公式の相関図を見ながら、以下、それぞれの人物紹介を読むとよりわかりやすいはずです。

ちなみに人物ではありませんが、ドラマで重要な学びの場として登場する「明律大学」は、「明治大学」がモデルです。

以下、モデルの特定は、2024年5月時点の推定によるものです。放送が進行し、物語の展開とともに詳細が判明し次第、必要な修正・更新をしていきたいと思います。



【1】主要登場人物/キャストのモデルとなっている実在人物

名前の後に?マークがついているのは、まだ確定できない人物です。

実在人物に近い役名のキャラクターは、ある程度、事実に忠実に…、実在人物をモデルとしつつ、名前を大きく変えているキャラクターは、かなり創作を盛り込んだ設定になる可能性が高いと推測しています。

本作のヒロインであり、五黄の寅年に生まれたことから「寅子」と名付けられたのが、三淵嘉子をモデルとした猪爪寅子です。ちなみに、三淵は二度結婚しており、姓は武藤→和田→三淵と変わっています。

三淵嘉子の生涯や自宅、死因や墓所などについては、以下の別の記事で詳しく紹介していますので、ここでは割愛します。

また、本ドラマの放送に合わせ、複数の評伝・伝記本が発行されていますが、おすすめは以下の著作です。

寅子の父が猪爪直言であり、もちろん嘉子の父である武藤貞雄がモデルです。ちなみに、上記家系図を見ればわかる通り、嘉子の祖父が同じ「直言」という名前でした。

貞雄は、明治19年(1886年)、香川県丸亀市生まれ。もともと宮武の姓でしたが、大正2年(1913年)、婿養子として武藤ノブと結婚しました。宮武家は、かつて丸亀藩の御殿医を務めていた家柄でした。

東大法学部を卒業して台湾銀行に入社。結婚後すぐにシンガポール支店、さらにニューヨーク支店から東京支店へと転勤。銀行を退職したあとは、川崎で、軍のための火薬製造工場を経営するなど、実業家として成功しました。ドラマで描かれる、政界の汚職事件(帝人事件がモデル)に巻き込まれるというエピソードは創作です。

包容力があり、また放任主義で、嘉子が法曹界をめざすことについても反対しなかったどころか、そもそも医者か弁護士になれとすすめていたのが貞雄だったと言われています。

昭和22年(1947年)10月、肝硬変により死去しました。

寅子の母が猪爪はるであり、モデルは嘉子の母である武藤ノブです。

ノブは、明治25年(1892年)、6人姉妹の末っ子として生まれました。幼い頃に実父の宇野伝三郎が死去し、子のなかった伯父・武藤直言と駒子夫婦の養女となります。

上述のとおり、大正2年(1913年)に宮武貞雄と結婚。直言と貞雄の父である宮武良策がいとこ同士でした。結婚後すぐに台湾銀行のシンガポール支店赴任に同行し、大正3年(1914年)11月13日、ノブはそこで長女の嘉子を出産しています。

大正5年(1916年)から大正9年(1920年)まで、ニューヨーク支店に駐在していたときは同行せず、嘉子、長男・一郎の3人で、丸亀の武藤家で生活しました。再び東京支店に異動となってからは、一家で東京の渋谷、その後、麻布笄町(あざぶこうがいちょう、現在の西麻布)に暮らしました。

一郎に続き、輝彦、晟造(せいぞう)、泰夫と、あわせて一女四男をもうけています。

ノブは、良妻賢母タイプの女性で子どもたちのしつけにも厳しく、嘉子にも同様に良妻賢母になることを望んでいました。そのため、法曹の道に進むのには強く反対していたと言います。

昭和22年(1947年)1月、夫の貞雄が亡くなるわずか10か月前に、ノブも脳溢血により死去しています。

寅子の兄として登場する猪爪直道ですが、三淵嘉子には兄がおらず、四人の弟の中で一番年長の武藤一郎がモデルの可能性が高いと推測しています。弟2人とするより、兄と弟とした方が人物造形を描きやすいと判断したのではないでしょうか?

一郎は、大正5年(1916年)の生まれであり、生まれたばかりだったこともあって、貞雄のニューヨーク赴任には同行せず、日本に残ったと言われています。

横浜高商を卒業後、現在の日立製作所に勤めていました。

一郎は、妻が第一子を妊娠中に出征。昭和19年(1944年)6月、沖縄に向かっていた輸送船「富山丸」が奄美諸島沖で米軍に撃沈され、若くして戦死しました。

寅子の弟が猪爪直明ですが、既述の通り、三淵嘉子には一郎、輝彦、晟造(せいぞう)、泰夫と弟が4人おり、終戦時、まだ岡山の六高の学生だった末弟の武藤泰夫が直明のモデルに近いようです。

昭和19年(1944年)から昭和22年(1947年)にかけてのわずか3年の間に、嘉子は弟の一郎、夫の芳夫、父と母を相次いで亡くしますが、そのとき、泰夫はまだ岡山の六高の学生、晟造は北大の学生、すでに大学を卒業していた輝彦も復員したばかりでまだ独り立ちしているとはいえない状況にあり、嘉子は親代わりとなって、学費など4人の弟たちの面倒をみていました。

輝彦は、後年、花火の製造会社「海洋化研」の代表取締役を務めたりしていましたが、2002年10月に没。泰夫は、東京大学を卒業後、林野庁勤めから民間企業に移り、晩年は森林保護の活動に尽力していました。令和3年(2021年)に93歳で亡くなっています。

晟造も泰夫より先に亡くなっており、すでに故人です。



寅子の女学校の同級生で、兄の直道と婚約しているのが米谷花江です。上記の通り、直道のモデルが武藤一郎だとすると、その妻・武藤嘉根が花江のモデルでしょう。

武藤嘉根については、詳しいことはわかっていません。しかし、戦時中、嘉子が長男の芳武を連れて福島県の農家に疎開していた際、一郎の妻である嘉根とその娘・康代も同行しており、良好な関係だったことがわかります。

猪爪家に下宿し、昼間は銀行で働きながら夜、大学の夜学部で法律の勉強を続ける書生として登場するのが仲野太賀演じる佐田優三。モデルは、嘉子の夫となる和田芳夫です。

和田芳夫は、父・貞雄の中学時代の親友の甥であり、実際、武藤家に書生として下宿し、会社勤めを続けながら、明治大学の夜学部を卒業。卒業後は、紡績会社の東洋モスリンで働いていました。

嘉子が弁護士となった翌年の昭和16年(1941年)11月5日に2人は結婚。昭和18年(1943年)1月1日に、長男の芳武をもうけています。

芳夫はもともと病弱であり、一度は結核の肋膜炎を理由に召集免除となっていましたが、昭和20年(1945年)1月、再び赤紙が届いて中国に派兵されました。

芳夫は、中国で病に倒れて上海の病院に入院。終戦後の昭和21年(1946年)5月、移送された長崎の陸軍病院で死去しました。当時、嘉子は明治大学の女子部で民法を教えていましたが、復員の知らせすら届かず、最期を看取ることもできませんでした。

明律大学の女子部創設に尽力する法学者が小林薫演じる穂高重親であり、その名と経歴から、モデルは東京帝国大学の教授で、明治大学でも民法を教えていた穂積重遠だと思われます。

穂積重遠は、東京帝国大学の教授から法学部長、さらに最高裁判所の判事も務め、「家族法の父」とも呼ばれました。また女子教育の充実に力を入れ、明治大学に女子部設立を提言したのも穂積でした。

昭和26年(1951年)に、68歳で死去しました。渋沢栄一の孫にあたります。

当時、男性に限られていた裁判官になろう決心した三淵嘉子が、勇気を出し、裁判官採用願を提出した相手は、司法省人事課長の石田和外(かずと)でした。

石田和人は、後に最高裁判所長官(第5代)となる人物で、松山ケンイチ演じる桂場等一郎も、その通りの設定のようです。退官後は、政治活動にも積極的に取り組みました。1979年に75歳で死去しています。

もう一人のモデルだと言われているのが、裁判官、弁護士などを務めた草野豹一郎です。大審院判事として確かな実績を残したほか、中央大学法学部教授など、教育面でも多大な尽力をした人物として知られています。

寅子と優三の間にうまれる長女が優未。モデルは、性別こそ違いますが、三淵嘉子が和田芳夫との結婚でもうけた唯一の実子である和田芳武でしょう。

和田芳武は、昭和18年(1943年)1月1日、東京で誕生。戦時中は、父・芳夫が召集されて中国に渡ったため、母の嘉子とともに福島の農家に疎開していました。つまり、父の顔を知らずに育ったことになります。

昭和25年(1950年)、嘉子が半年間、アメリカに派遣された際、まだ7歳だった芳武は、嘉子の弟である輝彦・温子夫妻の家に預けられたようです。

その後、芳武は母とは違う道を選び、医学博士となって生物学者の道に進んでいます。また嘉子が三淵乾太郎と再婚した際も、麻布中学で中学生となっていた芳武はあえて和田姓を名乗り続けました。

嘉子のがんが発覚したとき、それを母に告げたのは芳武であり、母の最期を看取っています。

芳武の没年は不詳ですが、すでに故人です。上記でご紹介した清水聡著の評伝『三淵嘉子と家庭裁判所』の中に、平成28年(2016年)から数年にわたり和田芳武に取材したが、数年前に亡くなったと記されており、没年は2020年前後だと推測できます。



法曹界の重鎮を父に持つ裁判官として登場するのが、岡田将生演じる星航一です。氏名は少し違いますが、人物背景、そして岡田将生がキャスティングされていることから、嘉子の二度目の結婚相手となる裁判官の三淵乾太郎がモデルである可能性が高いと推測されます。

三淵乾太郎は、明治39年(1905年)12月、会津生まれ。父は、初代最高裁長官の三淵忠彦であり、乾太郎も戦前は北京で司法領事を務めていました。

昭和31年(1956年)8月、後に最高裁判事となる関根小郷に紹介され、嘉子と結婚。乾太郎50歳、嘉子41歳で、ともに再婚でした。乾太郎は、この1年前に先妻の祥子を病気で亡くしたばかりであり、4人の子どもがいました。(長女・那珂、次女・奈都、三女・麻都、長男・力)。

乾太郎は紳士的で教養にあふれ、夫婦仲はすこぶる円満でした。しかし、自分の正義をどこまでも押しとおす嘉子は、家事と仕事を両立させる中、すでに裁判官の八木下巽と結婚していた長女の那珂、再婚当時まだ難しい14歳だった長男・力とはたびたび衝突していたようです。

晩年は、脳梗塞を発症するなど病がちであり、嘉子ががんの治療で国立病院医療センターへ入退院を繰り返していたのと同時期に、乾太郎も入れ替わるように入院したりしていました。嘉子が亡くなってからおよそ1年後の昭和60年(1985年)8月、79歳で死去しました。

星航一の父であり、初代最高裁長官を務めているのが星朋彦であり、つまり、三淵忠彦がモデルとなっています。

三淵忠彦は、明治13年(1880年)3月3日生まれで、東京帝国大学、京都帝国大学に学び、明治40年(1907年)、東京地方裁判所判事となりました。

大正14年(1925年)、45歳のときに一時退官し、三井信託株式会社の法律顧問を経て、昭和22年(1947年)に、初代最高裁判所長官に就任しました。3年後には定年となり退官していますが、そのときすでに病気療養中でした。

私生活では、2度結婚しており、死別した最初の妻・トキとの間にもうけた三男一女の長男が乾太郎です。再婚した2人目の妻・静との間にも一男をもうけています。

多趣味の文化人としても知られていましたが、退官と同年の昭和25年(1950年)7月14日、回盲部腫瘍のため70歳で死去しています。

寅子らとともに家庭裁判所の設立・充実のため尽力する、寅子の上司とされているのが多岐川幸四郎です。その名から明らかな通り、最高裁判所の初代家庭局長を務め、「家庭裁判所の父」とも呼ばれた宇田川潤四郎がモデルでしょう。

宇田川潤四郎は、明治40年(1907年)、東京の本郷生まれ。早稲田大学卒業後に司法科試験に合格して裁判官となりました。31歳の時に満州に赴任し、地方法院の裁判官や中央司法職員訓練所の教官など務めます。教え子たちに慕われ、彼らの助けもあって戦後どうにか無事帰国できましたが、多くの戦災孤児を目の当たりにしたことが、宇田川の意識を変えたと言われています。

また妻・千代子が、帰国してまもなく、昭和21年10月に腸チフスにより36歳で死去。子どもたちを抱え、宇田川は少年問題に情熱を傾けるようになります。京都少年審判所の所長を務めたり、京都の宇治に少年院を設立するため尽力しました。

昭和24年1月1日、全国に家庭裁判所ができるのに合わせ、最高裁の事務総局にも新しく「家庭局」が発足。京都から宇田川が呼び寄せられて初代家庭局長に就任しました。この時、三淵嘉子は事務官として宇田川を支えています。丸8年間務めあげ、その後は家裁調査官研修所の所長、京都家裁の所長など歴任しました。

最後は内藤頼博の後任として東京家裁の所長に就任しましたが、この頃から体調が悪化。昭和45年8月4日、直腸がんにより63歳で死去。チョビ髭の個性的な風貌で愛される人物でした。

寅子が裁判官を志す上で、その力となる人物だとされる久藤頼安のモデルは、その名前から、後に東京家庭裁判所の所長などを歴任する内藤頼博だと推測されます。

内藤頼博は、現在の新宿区内藤町に広大な屋敷を構えていた内藤家の第16代当主であり、戦前は子爵の裁判官でした。すらりとした長身の紳士として、周囲から好かれる人物で、あだ名は「殿様判事」だったようです。三淵乾太郎とは同期でした。

昭和15年(1940年)、司法省から派遣され、半年に渡ってアメリカの裁判所を視察。日本にも家庭裁判所を設置する必要性を痛感して帰国後、宇田川潤四郎と協力し、その創設に尽力しました。

秘書課長から総務局長になったあと、しばらく結核の療養をしていましたが、宇田川の依頼により家裁調査官研修所の初代所長に就任。その後、東京家裁の所長に就き、そのとき少年部の裁判官だったのが三淵嘉子です。内藤と三淵は、少年法改正問題に取り組み、昭和41年(1966年)には、問題を起こした少年の更生を支援するボランティア組織「少年友の会」を設立しています。

後年は、弁護士として、また多摩美術大学の学長、理事長など教育面でも尽力しました。平成12年(2000年)12月5日に92歳で死去しました。

家庭裁判所を設立するため奔走する多岐川幸四郎の右腕的存在が、平埜生成演じる汐見圭であり、だとすると家庭局局長の宇田川を第一課長として支えた市川四郎が、そのモデルだと推測されます。

市川四郎は、東京家事審判所から異動し、まず最高裁の中に設けられた「家庭裁判所設立準備室」の責任者を務めました。その後、「家庭局」が作られると、初代局長となった宇田川の部下である第一課長となりました。

市川四郎は、その後、東京高裁の長官を務めています。

ちなみに、初代家庭局の主要メンバーは以下のとおりです。汐見圭は、これら補佐の人物たちを合成させたキャラクターになる可能性もあります。

家庭局長:宇田川潤四郎
第一課長:市川四郎(家事担当、第二課長兼務)
第三課長:内藤文質(少年担当)
事務官(局付):柏木千秋(総務担当)
事務官(局付):森田宗一(少年担当)
事務官(局付):三淵嘉子(家事担当)



明律大学における寅子の先輩にあたる女子部の一期生で、リーダー的存在が久保田聡子です。寅子、中山千春とともに司法科試験に合格する3人の女性の一人となりますが、仕事はうまくいかず、夫の郷里である鳥取に行くことに……。

モデルは、実際に三淵嘉子とともに、司法科試験に合格した初の女性3人のうちの一人、中田正子です。

中田正子(旧姓は田中)は、明治43年(1910年)12月1日、現在の東京都文京区生まれ。父・田中国次郎は職業軍人、母・槙子は専業主婦として4人の子をもうけました。(正子は次女で、姉も次弟も20代で死去。長弟は満州鉄道、国鉄に勤務)。

正子は、新渡戸稲造が校長を務める女子経済専門学校、日大法学部、そして明治大学の女子部法科を経て、昭和10年(1935年)に明治大学法学部に入学。三淵ら3人揃って司法科試験に合格する昭和13年(1937年)の前年にも、正子は司法科試験の筆記試験に女性として初めて合格しています(このときは口述試験で不合格)。

昭和14年(1939年)に、東亜研究所の研究員だった中田吉雄と結婚。5年間、東京の岩田宙造(後の司法大臣)の事務所で弁護士を務めたあと、昭和20年(1945年)に夫の結核療養のため、夫の郷里である鳥取に移り、そこで弁護士を続けました。子どもは、長女・澄江、次女・和子、長男・道夫の3人をもうけています。

夫の吉雄は鳥取県議会議員を経て、社会党から参議院議員に当選。三期18年の間、鳥取と東京の別居生活が続きました。その間、正子は、昭和44年(1969年)に、鳥取県の弁護士会会長に就任しましたが、全国で初の女性会長でした。

吉雄は、昭和60年(1985年)に脳梗塞により78歳で死去、正子は、平成14年(2002年)10月15日、心不全により91歳で死去しています。

ちなみに1939年公開の映画『新女性問答』の主人公は中田正子がモデルであり、桑野通子が演じています。

明律大学における寅子の先輩にあたる女子部の一期生が中山千春であり、寅子とともに司法科試験に合格する女性の一人となります。

モデルとなった久米愛は、明治44年(1911年)7月7日、大阪生まれで旧姓は藤原。津田英学塾(現在の津田塾大学)、明治大学の女子部を経て、昭和11年(1936年)に明治大学法学部に入学しました。

1年生のとき、東大法学部3年生だった久米知孝と出会い、昭和13年(1938年)に結婚します。知孝は、大学卒業後、日立製作所に入社して北九州の工場に転勤。そのため、愛は、杉並区高円寺の夫の両親と同居し、司法科試験の受験勉強を続けました。

司法科試験合格後、弁護士試補を経て、正式に弁護士となります。のちに日弁連初代会長となる有馬忠三郎の事務所で働きました。召集されていた知孝は、病気になり満州ハルピンから帰還。2人は、幼ない長男を亡くしましたが、その後長女・純子と次女・知恵子をもうけています。

愛は、昭和25年(1950年)、GHQの招きによる「婦人使節団」の一人として渡米し、4か月にわたり視察しました。帰国後、「日本婦人法律家協会」を設立し、愛が初代会長に、三淵嘉子が副会長に就任しています。その後、国連総会に日本政府の代表としてたびたび出席したほか、日本で初めて女性として最高裁判所の判事候補となりました。

昭和51年(1976年)7月14日、すい臓がんにより65歳で死去。三淵嘉子とは生涯を通じて家族ぐるみの付き合いをしていたようです。

3人の女性の詳しい生涯は、以下の著作がおすすめです。

明律大学法学部の男子学生で、女子学生の憧れの存在であるばかりか、司法科試験に一発で合格するのが花岡悟です。

そのモデルは、同じ佐賀県出身の設定が共通していることもあり、裁判官の山口良忠だと推定されています。

山口良忠は、大正2年(1913年)11月16日、 佐賀県杵島郡の教師の家に生まれました。花岡とは異なり、京都帝国大学・大学院を卒業し、司法科試験に合格しました。判事となり、昭和17年(1942年)より東京民事地方裁判所、戦後の昭和21年(1946年)に東京区裁判所の経済事犯専任判事となりました。

違法である闇米の取引に手を染めざるをえない、戦後の食糧難で苦労する人々に同情し、自身も責任感の強さから、闇米を食べることを拒否するに至ります。配給された米は家族(妻と2人の子)に与え、自身は栄養失調から次第に衰弱していきました。

昭和22年(1947年)10月11日、栄養失調から肺浸潤となり、33歳の若さで死去。事実上の餓死でした。

寅子が試験合格後、初めて働くのは、塚地武雅演じる雲野六郎の経営する雲野法律事務所。

だとすると、雲野六郎のモデルは、丸の内で弁護士事務所を開業していた仁井田益太郎でしょう。司法科試験に合格した三淵嘉子が、弁護士試補として約一年半の見習い期間を過ごしたところです。

仁井田益太郎は、法学博士として帝国大学の教授を歴任するなど、学者として名を成したのち、1921年(大正10年)に弁護士登録しました。戦前から終戦時まで貴族院議員も務めた人物ですが、ドラマ上、雲野六郎の設定はかなり異なるようです。

久藤頼安と協力し、民法改正に取り組むGHQの担当者がユダヤ系アメリカ人のアルバート・ホーナーであり、モデルはドイツ生まれのユダヤ人法律家、アルフレッド・C・オプラーだと言われています。

アルフレッド・C・オプラーは、1893年にドイツ領のアルザス=ロレーヌに生まれ、大学で法律を学んだのち、司法官となりました。ヒトラー政権のユダヤ迫害から逃れ、アメリカに亡命。大学教員を経て、GHQの民政局に所属し、戦後日本の法制改革に取り組みました。

1959年にアメリカに帰国し、1982年に89歳で死去しています。



【2】架空の人物と思われる登場人物/キャスト

以下の登場人物は、架空の人物だと推測していますが、物語の展開の中で判明した場合は更新したいと思います。

多くのキャラクターは、NHKが力を入れている多様性、LGBTQネタを盛り込んだ可能性が高いでしょう。

明律大学における寅子の同級生で、きりりとした男装の女性。

ただ「よね」の名前から、上記⑰久米愛がモデルとなっている人物の一人である可能性もあります。

明律大学における寅子の同級生で、華族のお嬢さま。

明律大学における寅子の同級生で、弁護士の夫・3人の息子を持つ年長の女性。

明律大学における寅子の同級生で、朝鮮半島からの留学生。

明律大学法学部の男子学生で、悟の悪友。



『虎に翼』はオリジナルストーリー

『虎に翼』は、実話に基づいたオリジナルストーリーをうたっており、当然、多くの創作が盛り込まれるはずです。

しかし、以上のとおり、実在の人物がモデルとなっている登場人物も少なくなく、大筋はかなり実話に忠実になることが予想されます。

また、放送がスタートし、物語の展開が明らかになりましたら、この記事もそれに合わせて更新したいと思います。

※ドラマのロケ地・撮影場所については、以下の記事で詳しく紹介しています。

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