【どうする家康】徳川家康に仕えた家臣21人:四天王/十六神将

徳川家康・家臣団 ドラマ

NHK大河ドラマ3度目となる、徳川家康を主人公にした第62作目が『どうする家康』です。

松本潤が家康に扮し、多彩な人物が入り乱れる、戦国から江戸初期の激動の時代が描かれました。

本記事では、家康を支えた側近・家臣団に絞り、彼らの人物像をわかりやすくご紹介したいと思います。

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『どうする家康』に登場する徳川家康に仕えた側近・家臣団

260年を越える江戸時代の礎を築いた、日本歴史上屈指の偉人、徳川家康ですが、当人ばかりか、家康に仕え、尽力した側近たちの多大なる功績も広く知られています。

一般に、特に江戸幕府成立に直接功をなした4人を「徳川四天王」と呼び、その4人を含む16人を「徳川十六神将」と呼んでいます。

ドラマでは、16人全員が登場したわけではありませんが、四天王を中心にしつつ、その他12人、さらにそれ以外の重要な家臣についても、家康との関係や最期など簡単にご紹介したいと思います。

【徳川四天王とは?】

4人の中でも、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人を特に、「徳川三傑(三人衆)」と呼ぶこともあります。

四天王は、家康配下の大名として、いずれも多くの石高の所領を与えられ、徳川重臣の地位を確立しました。

①酒井忠次/演:大森南朋

1527年、松平の家臣・酒井忠親の次男として誕生。家康の父・松平広忠に仕え、家康が駿府の今川に人質となっていた際にも同行しました。

桶狭間の戦いの後には徳川家の家老となり、三河一向一揆でも家康方につきます。吉田城主となって東三河を管轄しました。

1588年には、長男の家次に家督を譲って隠居し、1596年に70歳で死去しました。武田の駿河侵攻、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなど、すでに死去していた関ケ原の戦いを除くほぼすべての戦で武功をあげた人物です。

②本多忠勝(平八郎)/演:山田裕貴

1548年、松平の古参家臣・本多忠高の長男として生まれました。幼くして家康に仕え、桶狭間の戦いでは13歳にして初陣しています。通称は平八郎。

1566年には旗本先手役を任ぜられ、常に家康の傍らで名武将として部隊を率い続けました。1582年、本能寺の変が起こった際も、混乱する家康をいさめ、伊賀越えに随行したのも忠勝でした。小牧・長久手の戦い、さらに関ケ原の戦いでも目覚ましい戦功をあげ、その名武将ぶりは、豊臣秀吉さえからも賞賛されたといいます。

さらに、所領として与えられた伊勢国桑名藩の藩政を確立・整備し、名君と称えられました。晩年は病がちになり、1610年、桑名において63歳で死去しました。

③榊原康政/演:杉野遥亮

榊原康政(通称:小平太)は、1548年、伊勢国榊原から三河に渡った分家にして、酒井家に仕える陪臣の家に生まれました。13歳のとき、家康の小姓に選ばれ、三河一向一揆で初陣を果たしています。

同じ歳だった本多忠勝と共に旗本先手役に任ぜられ、大将として活躍しました。家康と秀吉が和睦する際、京都への使者に選ばれたのが康政です。家康の関東移封の際には、江戸城の修築につとめ、上野国館林に10万石の所領を与えられました。

関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍の軍監として戦ったこともあり、秀忠からの信頼はとりわけ厚かったと言われています。1606年、59歳で死去しました。

④井伊直政/演:板垣李光人

1561年、今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として生まれました。井伊家当主だった直盛は戦死、父の直親も今川氏真に誅殺されます。直盛の娘が直虎を名乗って当主となり、幼い直政は出家の身となりましたが、1575年、家康の小姓に選ばれ、仕えることとなりました。

家康の養女だった花(後の唐梅院)を正室とし、小牧・長久手の戦いなどで戦功をあげます。古参家臣ではないもの、長槍の名手として「井伊の赤鬼」の名で恐れられました。上野国箕輪に、家臣団の中で最も多い12万石の所領を与えられています。

関ケ原の戦いでも東軍の中心的存在として活躍。石田三成の旧領である近江国佐和山に18万石を与えられました。彦根城築城中の1602年、42歳で死去しています。



【徳川十六神将とは?】

既述の通り、徳川四天王にさらに12人をくわえたのが「徳川十六神将」です。16人を描いた肖像画がいくつか存在します。

ちなみに、さらに12人をくわえた「徳川二十八神将」という呼称も存在しますが、ここでは説明を省略します。

⑤大久保忠世/演:小手伸也

1532年、松平氏家臣・大久保忠員の嫡男として三河に生まれました。長篠の戦いにおいて戦功をあげ、二俣城の城主に任ぜられています。

1590年には、家康の関東移封にともない、秀吉より小田原城を与えられました。1594年、63歳で死去しています。

⑥平岩親吉/演:岡部大

1542年、松平氏家臣・平岩親重の次男として三河に生まれました。家康と同じ歳であり、駿府で今川義元の人質だったときも随行しています。

家康の嫡男・信康の補佐にあたっていましたが、信康切腹の責任をとって蟄居。しかし、家康に呼び戻され、家臣に復帰しています。1576年には、信長および家康の命を受け、家康の母方親族にあたる水野信元を誅殺しました。関ヶ原の戦いの後は、甲斐国藩主となった家康の幼い九男・義直の代理で統治。さらに尾張藩の藩政にも携わりました。

平岩氏には、犬山の所領が与えられていましたが、1611年、70歳で死去。跡取り不在により、平岩氏は断絶しています。

⑦服部正成(半蔵)/演:山田孝之

1542年、もともと伊賀国の土豪で、松平に仕えていた服部保長を父に、三河国伊賀に生まれました。幼くして腕力に秀でていたことから大樹寺での出家を拒否して失踪した過去があります。

三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いで戦功をあげ、また本能寺の変に伴う家康の伊賀越えでは、故郷の利を生かして護衛に努めました。

旗本先手武将の一人であり、正成自身は伊賀の忍者ではありませんが、いくつかの戦において伊賀や甲賀の忍びたちを指揮していたと言われています。1596年、55歳で死去しました。

⑧鳥居元忠/演:音尾琢真

1539年、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として三河国に誕生。家康が今川の人質だった時代から側近として付き添った古参です。

長篠の戦い、天正壬午の乱、小田原征伐など戦功を重ねます。1600年、家康の会津征伐の際には伏見城の護衛にあたりましたが、家康留守を狙った石田三成に攻められ、62歳で討ち死にしました。

⑨渡辺守綱/木村昴

渡辺守綱は、家康と同じ歳であり、若い頃から家臣として仕えていました。槍の名手であり、「槍半蔵」の名で服部半蔵(正成)と並び称されました。

一向宗の門徒だったことから、三河一向一揆では家康に背きましたが、後に赦免されて帰参。その後は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、大坂冬の陣・夏の陣などに従軍し、武功をなしました。

1608年には、尾張藩主となった家康の九男・義直の家老となっており、家康死後も、その任にあたりました。1620年に、79歳で死去しています。

⑩米津常春/登場せず

松平氏の家臣・米津勝政を父に持ち、13歳より松平に仕えました。数々の合戦に従軍し、3000石を所領とします。失明により、蟄居を余儀なくされ、1612年、江戸で死去しました。

⑪高木清秀/登場せず

家康の伯父にあたる水野信元に仕えていましたが、1580年ごろには、織田信長直属の家臣となっていたと言われています。

信長の死後に家康の家臣となり、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で戦功を重ねました。武勇に秀でた武将として知られています。1610年、85歳で死去しました。

⑫内藤正成/登場せず

内藤正成は、松平広忠の家臣から、そのまま家康に仕えました。弓の名手として知られ、三方ヶ原の戦いでは、武断派の筆頭として嫡男を失いながらも奮戦し続けたといいます。

武蔵国埼玉郡に5000石を与えられましたが、その労に見合う石高とは言えず、不満を抱えていたと言われています。1602年、75歳で死去しました。

⑬大久保忠佐/登場せず

上記⑤大久保忠世の弟であり、父・兄とともに松平広忠、そして家康に仕えました。数々の合戦で武功をあげて、家康から駿河沼津に2万石を与えられ、沼津城を居城としました。

1613年に77歳で死去しました。武勇に秀でた大名として知られていましたが、跡取りがおらず、沼津藩は忠佐の死後に改易となっています。

⑭蜂屋貞次/登場せず

1539年、三河国に生まれ、家康の家臣となりましたが、三河一向一揆の際には、家康に背いて一揆側につきます。結局、大久保忠政の仲介で家康に降伏し、赦免されて家臣に復帰しました。

その後、家康の吉田城攻めに従軍しましたがその際に負傷し、26歳で死去しました。

⑮鳥居忠広/登場せず

上記⑧鳥居元忠の弟であり、兄ともども武勇に秀でた武将として知られていました。三河一向一揆では一揆側に加担しましたが、後に帰参し、姉川の戦いなどで武功をあげています。

しかし、1573年、三方ヶ原の戦いで徳川軍が大敗するとともに、忠広も武田軍の土屋昌続に討たれました。

⑯松平康忠/登場せず

松平康忠は、松平の分家・長沢松平家の8代目当主であり、家康の従弟あたります。桶狭間の戦いで父の政忠が討ち死にしたため、家督を継ぎました。母の碓井姫が、家康重臣の酒井忠次へと嫁いだ縁もあり、忠次を補佐する形で姉川の戦い、長篠の戦いなどに従軍しています。

1588年に、嫡男の康直に家督を譲って隠居しますが、康直も、養子に迎えた家康の七男の松千代も早逝。そのため六男の辰千代を迎えました。その後、康忠は1618年、73歳で死去しています。



【16人に入っていないその他家臣】

⑰石川数正/演:松重豊

家康が今川の人質だったころからの側近であり、家康の嫡男・信康と正室・築山殿を今川氏真から取り返したほか、姉川の戦い、長篠の戦いなど多くの合戦で戦功を挙げました。

小牧・長久手の戦いでは、家康に秀吉との和睦を提言したとされていますが、その翌年、突如として家康を裏切り、秀吉の家臣となってしまいます。その理由は諸説ありますが、結果として、家康は内情をよく知る人物が敵方に回るという痛手を負いました。

秀吉から、河内国に8万石、その後、信濃国松本に加増移封されています。1593年、61歳で死去しました。

⑱鳥居忠吉/演:イッセー尾形

兄弟で「徳川十六神将」に選ばれている鳥居元忠と忠広の父です。家康の祖父にあたる松平清康の代から松平氏に仕えていた忠臣として知られています。

今川の人質から岡崎に戻った家康のために財を蓄えていたという話は有名です。その後は、高齢のため岡崎城に残り、1572年に80数歳で死去しました。

⑲夏目広次(吉信)/演:甲本雅裕

古くから松平氏に仕える夏目吉久を父に持ち、今川氏との戦で武功をあげました。ところが、三河一向一揆では一揆側に加担して家康と敵対。のちに松平伊忠の嘆願によって、帰参を許されました。

三方ヶ原の戦いにおいて、家康の身代わりとなって討ち死。享年55歳。家督を継いだ三男・信次は後に斬り殺し事件を起こしますが、父が広次であることを知った家康により赦免されています。

ちなみに、夏目漱石は、この夏目家の末裔だと称していたようです。

⑳本多忠真/演:波岡一喜

本多忠真は、「徳川四天王」の一人である本多忠勝の叔父にあたります。兄の忠高が戦死したため、父親代わりとなって、甥の忠勝の教育にあたりました。

その後も、忠勝を補佐する形で数々の戦に従軍。しかし、1572年、三方ヶ原の戦いにおいて、武田軍を前に討ち死にしました。

㉑本多正信/演:松山ケンイチ

松平の重臣・酒井忠尚に仕えていた本多俊正の次男として生まれ、桶狭間の戦いにも従軍しました。ところが三河一向一揆では、家康に背いて一揆側につき、鎮圧されると加賀国に出奔。のち、大久保忠世の仲介で帰参してからは、家康の参謀的存在になっていきました。

家康の関東移封の際には、相模国に1万石を与えられて大名となります。秀忠が2代将軍につくと、老中として幕政の中枢に関わり続けました。

1616年、家康死去にあわせて自身も隠居し、ほどなく79歳で死去しました。



『どうする家康』に登場するさまざまな人物と見どころ

ドラマは、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄ら、戦国の大武将との戦いが大きな柱であることは確かですが、同時に、こうした家臣団との関係ももう一つの見どころとなっていました。

さすがに16人全員を登場させるわけにいかなかったのは、致し方ないでしょう。

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