『おちょやん』モデルとなった18の人物・団体【その後と実話】

おちょやん モデル ドラマ

新型コロナウィルスの影響を受け、例年より約2カ月遅れの2020年11月30日に放送がスタートした、第103作目NHK連続テレビ小説『おちょやん』。

女優の浪花千栄子をモデルに、その波乱の生涯を描く物語ですが、もちろん主人公以外にも多数の登場人物に実在のモデルがいます。

本記事では、そんな18の人物や団体について、実話とドラマとの相違点、その後を交えながら詳しく紹介したいと思います。

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朝ドラ『おちょやん』をもっと深く楽しむために!

ドラマ『おちょやん』は、大正から戦後の昭和にかけ、大阪と京都を主な舞台に、南河内の貧しい一家に生まれた竹井千代が、さまざまな苦難を乗り越えながら大女優として成長していく姿を描きます。

モデルとなった人物や団体について知ることによって、ドラマをもっと深く楽しむことができるはずです。

『おちょやん』に登場する実在のモデルがいる18の人物・団体一覧

1.竹井千代(演:杉咲花)→浪花千栄子

言うまでもなく本作のヒロインである竹井千代のモデルは、「浪花のお母さん」とも呼ばれ、国民的人気を博した名女優の浪花千栄子(本名:南口キクノ)です。

浪花千栄子は、1907年(明治40年)11月19日、大阪府南河内郡大伴村大字板持(現在の富田林市東板持町)生まれ。貧しい一家に育ち、幼くして女中奉公に出されたこと、その後女優の道を進むなど大筋はドラマ通りです。

後半生は、巨匠の映画や人気ドラマに出演し名女優の地位を確立した一方、養女とともに京都に住居兼料理旅館を開業したりしましたが、1973年12月22日、消化管出血により66歳で死去しています。

浪花千栄子の生涯や逸話・エピソードについては、下記の2つの記事に詳しくまとめてありますので、こちらをご覧ください。

2.竹井テルヲ(演:トータス松本)→南口卯太郎

博打好きで、千代に無心する悪党の父親として描かれるテルヲですが、浪花千栄子の実父、南口卯太郎も、お世辞にも良い父親だとは言えない人物でした。実母の死後、再婚した飲み屋の仲居の言いなりになった卯太郎に追い出されるような形で、女中奉公に出されたというのも事実に即したものです。

ただし、テルヲが病を患い、死に瀕してようやく千代と和解するという展開は創作です。実際の卯太郎はというと、道頓堀での女中奉公の年季が明けるや再び富田林で奉公に出し、その後、千栄子が京都に出ると同時にほとんど絶縁状態となったようです。

浪花千栄子が父の所在を知っていたかどうかは不明ですが、卯太郎がどのような晩年を送ったのは明らかになっていません。

3.竹井ヨシヲ(演:倉悠貴)→浪花千栄子の実弟(氏名不明)

浪花千栄子には3歳下の実弟がいたのは事実であり、早くに他界した母親代わりとなって面倒をみていました。

しかし、実名はもちろん、その後、どのような生涯を送ったのかについては明らかではありません。戦時中、満州で寛治と知り合った後、現地で戦死したというドラマの展開はおそらく創作だと思われます。

晩年、浪花千栄子は実弟の娘、つまり姪にあたる南口輝美氏を養女に迎え、自身の付き人、そして京都に開業した料理旅館「竹生(ちくぶ)」の経営を任せていました。

4.天海一平(演:成田凌)→二代目渋谷天外

千代と並ぶ主役的立場とあって、天海一平の人物像も、モデルとなっている二代目渋谷天外の実像におおむね沿ったものになっています。

喜劇劇団「楽天会」を主催していた父・初代渋谷天外の長男として生まれ、8歳で初舞台。父の死により劇団は解散し、「志賀廼家淡海一座」に入団しました。1928年に曾我廼家十吾らと「松竹家庭劇」を結成し、そこで出会った浪花千栄子と結婚しています。

戦後は、劇団「すぃーとほーむ」を経て、1948年に「松竹新喜劇」を結成(後述)。曾我廼家十吾が退団したのちは、弟子である藤山寛美とのコンビで絶大なる人気を博しました。1968年には紫綬褒章を受章し、1983年3月18日、76歳で死去しています。

ドラマでは、板谷由夏演じる母・ゆうとの絶縁が描かれましたが、父である初代渋谷天外は複数回結婚しており、二代目が実母の消息を知ることは生涯なかったと言われています。

父ばかりか、二代目渋谷天外自身の派手な女性関係に、浪花千栄子も苦しんだようですが、「松竹新喜劇」の新人女優だった九重京子と子をもうけたことで、ついに離婚に至りました。

5.須賀廼家万太郎(演:板尾創路)→曾我廼家五郎

須賀廼家万太郎のモデルである曾我廼家五郎は、1877年9月6日、大阪府堺市生まれ。1893年に浪花座で初舞台を踏み、1904年、曾我廼家十郎らとともに「曾我廼家兄弟劇」を旗揚げしました。

ドラマの中では、須賀廼家万太郎と千之助を兄弟のような関係として、2人の確執が描かれますが、それは曾我廼家五郎と十郎の確執をモチーフにしたものだと思われます。五郎が、笑いに義理人情を組み合わせることを好んだのに対し、十郎はナンセンスな笑いに徹していたため、2人は次第に離れていきました。

欧州で喜劇を学んで「五郎劇」を結成し、以後、日本の近代喜劇の第一人者として活躍しました。晩年は喉頭癌を患って声を失い、1948年11月1日に71歳で死去しています。

劇中劇で、鶴亀家庭劇が演じることになる、切り落とした腕がすり替わる演目「手違い噺」は、曾我廼家十郎の代表作として知られています。

6.須賀廼家千之助(演:星田英利)→曾我廼家十吾

須賀廼家千之助のモデル、曾我廼家十吾は1891年12月4日、兵庫県神戸市生まれ。1899年、神戸橘座で初舞台を踏みました。曾我廼家十郎の弟子となり、その後さまざまな劇団を経て、二代目渋谷天外らとともに「松竹家庭劇」を旗揚げしました。

ドラマでも描かれたとおり、十吾はアドリブを得意としており、当時は曾我廼家五郎に続く人気がありました。

1948年には「松竹新喜劇」の結成にも参加し、看板役者として活躍しましたが、1956年、渋谷天外と対立して退団しています。このあたりの経緯はドラマとは異なりますが、老婆役を得意としていたのも事実です。

1974年4月7日、82歳で死去しました。



7.大山鶴蔵(演:中村鴈治郎)→白井松次郎

「鶴亀株式会社」の社長である大山鶴蔵のモデルは、言うまでもなく「松竹株式会社」の創業者、白井松次郎です。

双子の弟・大谷竹次郎とともに父の仕事を継いで興行師となり、さまざまな劇場を買い取りながら、近代的な演劇・芝居・映画経営の礎を築きました。1951年1月23日、75歳で死去しています。

「松竹」とは二人の名前から命名されており、1907年に買い取った京都南座のロビーには兄弟の銅像が並んでいます。

8.高城百合子(演:井川遥)→岡田嘉子

劇中、千代の女優人生に多大な影響を与えた上、波乱の人生を選ぶ大女優の高城百合子ですが、モデルとなっている女優の一人が岡田嘉子。高城百合子にまつわるいくつかのエピソードは、岡田嘉子が体験した実話をもとにしています。

例えば、大作映画の主演女優ながら、監督から演技を罵倒されて追い詰められ、相手役の俳優と駆け落ちしたこと。その後、低迷するキャリアの中で出会った共産主義者の演出家・杉本良吉と恋に落ち、1937年、二人でソ連に亡命したことなどです。

千代との深い関わりそのものは創作ですが、渋谷天外と杉本良吉には親交があり、渋谷が杉本のために左翼活動の資金を援助していたとする説もあります。

ドラマでは、亡命のその後が描かれていませんが、ソ連入国後2人はすぐに引き離されて投獄。杉本は銃殺され、岡田も約10年を収容所で過ごしました。出所した後は、モスクワ放送局日本語放送のアナウンサー、在留日本人との結婚、35年ぶりの一時帰国などありましたが、1992年2月10日、89歳でモスクワにて死去しています。

9.山村千鳥(演:若村麻由美)→村田栄子

若き千代が初めて入団する京都の劇団「山村千鳥一座」の座長・山村千鳥のモデルは、村田栄子です。

しかし、村田栄子についての資料は少なく、詳しいことはよくわかっていません。

一説によると、1890年生まれで、結婚と台湾在住、離婚を経て帰国。下積み生活ののち、「新日本劇」に所属し、劇作家の門脇陽一郎と再婚。1916年に「村田栄子一座」を立ち上げ、京都の新京極にあった三友劇場(後述)を拠点に活動したものの、地方巡業中だった1927年に舞台で倒れ、そのまま旅館で37歳の生涯を閉じたというもの。

しかし、浪花千栄子の自伝には、芸術座松井須磨子一座の出身の名女優で、「すでに相当の御年配」だったとあり、上記事実と矛盾しています。

それでも、ドラマで描かれている通り、癇癪持ちで、演技に関しては非常に厳しい女性だったことは確かなようです。

劇中劇で、千代がいきなり主役に抜擢される漫画「正チャン」にまつわるエピソードは実話です。

10.松島寛治(演:前田旺志郎)→藤山寛美

父である座長急死によって一座が解散したことで、一平と千代のもとに引き取られる松島寛治のモデルは、昭和の喜劇王・藤山寛美です。

13歳のとき、二代目渋谷天外のもとで「松竹家庭劇」に入団。戦時中は慰問団の一員として満州に渡りましたが、帰国後、「松竹新喜劇」のメンバーとなったのはドラマで描かれている通りです。1951年、渋谷が書いた「桂春團治」の丁稚役で一躍人気役者となりました。

劇作家でもある二代目渋谷天外と役者に徹する藤山寛美は、名コンビとして「松竹新喜劇」の黄金時代を築くことになります。

しかし、やがて、金遣いの荒さと常軌を逸した豪遊で多額の借金問題をおこし、松竹新喜劇を解雇されてしまいます。のちに呼び戻されて復帰すると、19年かけて借金を返しつつ、喜劇王と呼ばれるにふさわしい活躍ぶりをみせました。

1990年5月21日、肝硬変により60歳の若さで死去しています。

11.朝日奈灯子(演:小西はる)→九重京子

『おちょやん』第19週で登場し、一平と深い仲になる朝日奈灯子のモデルは、女優の九重京子です。

九重京子は、14歳のとき、大阪松竹歌劇団で初舞台を踏んだあと男役として活動。戦後、「松竹新喜劇」旗揚げと同時に新進女優として入団します。ほどなく二代目渋谷天外と不倫関係に陥って懐妊。1950年に退団し、同年に長男を出産しました。

渋谷が千栄子に離縁を申し出ると、千栄子も劇団を退団して失踪。1954年終わりになってようやく離婚に合意し、翌年、渋谷と九重は正式な夫婦となりました。

九重京子は女優を引退して渋谷喜久栄となり、1954年には次男を出産しています。夫の最期を看取ったあと、2015年4月5日、94歳で死去しています。

12.花車当郎(演:塚地武雅)→花菱アチャコ

離婚によって失意のどん底に突き落とされた浪花千栄子が、女優として再起するきっかけとなったのが、人気漫才師だった花菱アチャコからの誘いでした。

花菱アチャコは、1897年7月10日、福井県勝山市生まれ。最初は役者として初舞台を踏んでいますが、すぐに漫才に転向し、1925年、吉本興業に入社します。横山エンタツとコンビを組んだ「しゃべくり漫才」で人気者となりました。

1952年、ラジオドラマ『アチャコ青春手帖』製作にあたり、花菱自身が浪花千栄子を相手役に指名。当時、京都に失踪中だった千栄子をNHKの担当者が探し出して説得し、共演が実現しました。再びコンビを組んだ『お父さんはお人好し』も大ヒットし、両作品とも映画化されています。

花菱アチャコは看板スターとして吉本興業を支え続け、1974年7月25日、77歳で死去しました。



13.芝居茶屋「岡安」→芝居茶屋「岡嶋」

千代が女中奉公する道頓堀の芝居茶屋「岡安」ですが、実際の浪花千栄子が奉公したのは仕出し料理屋(弁当屋)でした。

また、篠原涼子が演じたシズのように面倒見のいい女将がいたわけでもなく、過酷で虐げられた生活だったようです。

道頓堀ののち、再び奉公に出された富田林市の材木屋の女主人は善人だったらしく、シズのモデルはむしろこちらに近いのかもしれません。

女優となって京都から大阪に戻ってきた浪速千栄子がしばらく住まいとし、同じく居候していた二代目渋谷天外と出会ったのが、道頓堀にあった芝居茶屋「岡嶋(おかじま)」。これら複数の実話を組み合わせたのがドラマの「岡安」です。

14.カフェー・キネマ→「カフェー・オリエンタル」

千代は、道頓堀での女中奉公があけ、京都に出て「カフェー・キネマ」の女給となりますが、そのモデルとなったのは実在した「カフェー・オリエンタル」です。

「カフェー・オリエンタル」は、京都南部の深草(現在の京阪線藤森駅近く)にありました。藤森駅は、旧名が師団前駅。かつて大日本帝国陸軍第十六師団の駐屯地があり、軍関係の人が多数出入りしたカフェだったようです。

自伝の中では、「モルタルの西洋館で、ハート形の窓にはみどりや赤の色ガラスがはめ込まれ、金文字入りのガラスとびら」と形容されています。

浪花千栄子はここの女給仲間の紹介で、女優の職を得ました。

15.三楽劇場→「三友劇場」

千代も舞台に立つ、山村千鳥一座の拠点「山楽劇場」のモデルは、京都の新京極にあった「三友劇場」です。

この頃の新京極は、芝居小屋など大衆文化や娯楽で賑わい、いわば東京の浅草のような場所でした。

三友劇場は1945年に閉館したのち、1954年、洋画のロードショー作品を上映する「京極東宝劇場」となりましたが、こちらも2006年に閉館しました。跡地には現在、「スーパーホテル京都四条河原町」が建っています。

16.鶴亀撮影所→東亜キネマ「等持院撮影所」

千代は、山村千鳥一座を辞めたのち、「鶴亀撮影所」の専属女優となりますが、そのモデルとなっているのが東亜キネマの「等持院撮影所(のちに東亜キネマ京都撮影所に改名)」です。つまり、ドラマとは違い、その後の鶴亀系=松竹系とは別の映画会社です。

当時は、香住千栄子の芸名で、新進女優としてそれなりに名が知られつつ、大阪に戻る前にはもう一つ別の映画会社・帝国キネマにも短い期間在籍しています。

東亜キネマは、「日本映画の父」と呼ばれるマキノ省三の映画製作会社を土台に1923年に設立され、大正終わりから昭和初めにかけて、サイレント映画を量産していました。1932年に買収されてその歴史に終止符。マキノ省三が、京都市北区の等持院敷地内に設けた撮影所も閉鎖され、翌年には宅地となっています。

今も等持院の参道にはマキノ省三の銅像があり、当時の撮影所を偲ばせます。

17.鶴亀家庭劇/鶴亀新喜劇→「松竹家庭劇/松竹新喜劇」

「鶴亀家庭劇」とその後の「鶴亀新喜劇」のモデルは、他でもない「松竹家庭劇」、そして現在も続く「松竹新喜劇」です。

当時の上方喜劇界を二分する人気を博していたのが、「曾我廼家五郎一座」、そして二代目渋谷天外と曾我廼家十吾率いる「松竹家庭劇」でした。戦後は、渋谷が退団して新劇団「すいーとほーむ」(のちに「新家庭」と改称)を旗揚げしたりしていましたが、曾我廼家五郎死去をきっかけに、3つの劇団を合流させる形で結成されたのが「松竹新喜劇」でした。

創設は1948年12月。藤山寛美の時代には、圧倒的な人気を誇っていましたが、彼の死後は危機的状況に……。しかし、1991年、渋谷天笑(後の三代目渋谷天外)を代表に再出発し、現在も藤山直美や久本雅美らを客演に迎えながら公演を続けています。

劇中、鶴亀家庭劇で千之助が手掛ける演目「マットン婆さん」。そのモデルは、 藤山寛美の十八番演目として知られた「アットン婆さん」です。

18.福富/福富楽器店/岡福→「稲竹/今井楽器店/御蕎麦処今井 」

いしのようこ扮する女将の菊が「岡安」と張り合った老舗芝居茶屋の「福富」。のちに商売代えして喫茶を併設した「福富楽器店」になりましたが、そこにもモデルが存在します。

天保年間の1838年、今井家二代目・たけが道頓堀中座の向かいに創業したのが芝居茶屋「稲竹」。1916年、「稲竹」の営業権を番頭に譲り、五代目があらたに創業したのが「今井楽器店」でした。

しかし、大阪大空襲により店は全焼します。戦後、屋台の店から再スタートし、1946年にはついにうどんとそばの店「御蕎麦処今井」を開店しました。

福助を戦争で亡くしたみつえが屋台から再出発し、のちにうどん屋「岡福」を開店するという展開も、実話と一致しています。

「御蕎麦処今井」は「道頓堀今井」と名前を変えて現在も営業を続けています。全国有名百貨店にも出店するなど、関西では名の知られた名店です。

『おちょやん』には松竹新喜劇の現メンバーが多数出演!

劇団の現代表であり、二代目渋谷天外と九重京子の次男である三代目渋谷天外が、松竹撮影所の守衛・守屋役で出演しました。

他にも、小山田正憲役の曽我廼家寛太郎、須賀廼家天晴役の二代目渋谷天笑、須賀廼家万歳役の藤山扇治郎も、松竹新喜劇の現メンバーです。

藤山扇治郎は藤山寛美の実の孫。ドラマの中で万歳と寛治が触れ合う場面は感動的でした。

京都や大阪の『おちょやん』ゆかりの場所を訪ねてみては?

浪花千栄子らモデルとなった人物たちのその後を知ると、なかなか穏やかな気持ちでドラマを観ることは難しいかもしれません。

上記にご紹介した通り、現存している建物などはほとんどありませんが、京都・大阪のゆかりの場所に足を運び、変わってしまった姿から当時を偲んでみるのもいいかもしれません。

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